2016年10月23日日曜日

「ボブ・ディランのノーベル賞」

毎月1回、月曜日の午前10時40分ごろから約20分間、FMいとう「渚ステーション」(76・3Mh)で、ナビゲーターの浦島さんと台本なしのアドリブ対談をしている。

今月は一昨日、ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞について話した。冒頭、浦島さんから「上野さんはディランがお好きなんでしょ」と聞かれた。毎回、あらゆるテーマについて喋っているので、僕の好みはほぼ分かってくれている。反射的にこう答えていた。「好きというか、血を分けた兄弟、1カ月遅れで生まれてきた双子の兄弟のように感じています」。ぼくが生まれた日から1カ月と1日後に彼が生まれているからだ。

ディランの歌が大好きでよく聴いているというわけでもない。口ずさむこともめったにない。にもかかわらず、ディランそのもの、彼の人生そのものに深い共感、親近感を覚える。海を挟んで太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争、反権力運動、ドロップアウト、カウンターカルチュアなどを共有し、マイノリティー意識を共有し、母国語への深い愛、母国に伝わる各種の民衆音楽への愛を共有しているのだ。50年代のビートジェネレーションに強い影響を受けていることも共通している。


ディランの業績にノーベル文学賞で応えたスウエーデンアカデミーの炯眼には改めて敬意を表したい。ディランの背後には黒人奴隷のアフリカ系音楽、ゴスペル音楽、各国からの移民の伝統音楽、貧しい白人の感傷を歌ったヒルビリー音楽やフォーク音楽などがあることを理解し、それらを肉体化した吟遊詩人として正当に評価する態度にはスウエーデンという国の成熟度の高さを感じざるを得ない。

同アカデミーはいまだにディランとの連絡がつかないらしい。ディランは受賞を拒否はしていないようなので、授賞式にはそっと現れそうな気がする。仮に現れなくても、アカデミーが評価したという事実の重みは変わらない。

時代の空気を巧みに小説化して世界の若者を魅了する村上春樹の作品は、果たして歴史の検証に耐えて未来に残るのか。アカデミーは今年もその観測を続けているようだ。

Keiichi Ueno

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